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忠臣蔵通検定
第三回忠臣蔵博士試験問題と解答(平成17年6月実施)
1.吉良邸討入り後四十七士は、「義士」と言われ始めたのですが、誰が一番最初に言い表したのでしょう。
2.吉良左兵衛義周の茶匠は誰だったでしょう。
3.この問題は、赤穂義士の討入り出動時より切腹までの人数を問う問題です。①~⑤の人数を答えてください。
①最終終結場所、前原伊助宅を出発した人数は?
②吉良邸に討ち入って裏門より出てきた人数は?
③引揚げて泉岳寺に入った人数は?
④仙石邸へ移って尋問を受けた人数は?
⑤元禄十六年二月四日に切腹した人数は?
4.内蔵助は開城後の残務整理中に左の腕に悪質な腫れ物ができ、この治療のため赤穂の医師から湯治を指示されています。
どこの温泉を勧められた?
①道後温泉 ②白浜温泉 ③城崎温泉 ④有馬温泉
5.世に、吉良上野介の最大の罪状と言われている「口出し」とは、何の件に対しての口出しですか。
①将軍継承 ②皇位継承 ③上杉家継承 ④皇居移転
6.内蔵助が筋を通した「人前」とは?
①吉良が処分され、浅野大学が江戸城へ出仕できるようにすること。
②吉良邸へ討入りをして、吉良の首を取ること。
③人前で恥ずかしくないように浅野大学に五万石を与えてほしいと言うこと。
④松之廊下の事件の再審をしてほしいということ。
7.義士の切腹について、「陪臣の切腹に御目付が検使で来るのは異例のこと・・・」という御徒目付衆の話が書かれている「ひ楊録は、
義士お預けの四家のうち何家の記録でしょう。。
8.先覚の師と、その名著を番号とアルファベットで結んでください。
①内海 定次郎 ②渡辺 世祐 ③福本 日南 ④重野 安繹
A「堀部安兵衛」 B「赤穂義士実話」 C「正史赤穂義士」 D「真説赤穂義士録」
9.大石頼母助良重は、天和三年五月(1683年)に亡くなっておりますが、その当時、どこの寺院に埋葬されたでしょう。
又、その奥方であった鶴姫の墓は現在どこの寺院にあるでしょう。
10.次の義士のうち、赤穂浅野家時代、妻帯者だった人は誰でしょう。
①大高源五 ②近松勘六 ③勝田新左衛門 ④間十次郎
11.赤穂浅野家改易後、江戸下向までの間ほとんど兄姉宅に世話になり、毎日釣りをしていたと言われている義士は誰?
12.元蜂須賀家に仕えて、後に錦織辺に居住していた三尾轄悟という人がいましたが、この人は四十七士のうち誰の親友でしたか。
13.義士たちは吉良家の絵図面を手に入れるためにツテを求めますが、四十七士に図面を流したと思われる一番怪しい人物は?
① 松平登之助 ②近藤登之助 ③太田嘉兵衛 ④忠見扶右衛門
14.次の記述のうち、正しいものはどれ?
①内蔵助は東軍流免許皆伝だった。
②長矩時代の赤穂浅野家は五万三千五百石だった。
③堀部安兵衛が酒を飲んだとされる記録が残っている。
④天野屋利兵衛は架空の人物だった。
15.敵を油断させるため、内蔵助が京都で遊蕩した話は有名ですが、実は、少しばかり遊んでいたのは、親戚との縁を切るための策だっ
たことを証明する、信じるに足りる一級史料があります。その執筆者(原書を書いた人)と史料名(覚書)は?
16.義士冨森助右衛門の母親が、松之廊下事件の片落ち裁決を強烈に批判していますが、その話を直接聞いてビックリした人は誰?
17.大石内蔵助は、元禄十五年十二月十四日の日付で、三人の方に「去年以来志浅深之働之次第」を送っています。その三人の名は?
18.竹太郎という幼名だった義士は誰?
19.四十七士のうちで、乞われて薬問屋の看板を書いたと言われている義士は誰?
20.浅野方にも吉良方にも「左兵衛」という名前の人がいましたが、それぞれの実父の名前は何でしょう?
21.本所林町の堀部安兵衛の仮宅で、「討入り口上書」を入れる文箱を括り付ける竹の準備をしたのは誰?
22.討入りの際、四十七士は隣家土屋家に挨拶をしていますが、その土屋家は、元禄事件当時、領地はどこだったでしょう。
23.大石内蔵助が元禄十四年十一月三日、第一次江戸着を果たした際、原惣右衛門と大高源五に命じて、70両で購入したものとは?
24.松之廊下で内匠頭に切られた吉良上野介は、後になって外療の栗崎道有の治療を受けるが、
栗崎が来るまでの間治療に当たっていた医師二名は誰?
25.「仮名手本忠臣蔵」五段目で、定九郎の衣装を黒紋付に改めたことで脚光をあびた役者は誰?
26.元禄十五年十二月十五日朝、吉田・冨森両名が仙石邸に自訴しますが、その際事情を聞いて聴取書を作った家臣は誰?
①井上万右衛門 ②石川弥一右衛門 ③桑名武左衛門 ④一之新八郎
27.松平家で義士の介錯を受け持ったことが原因で主家を致仕(退職)した人は誰?
28.泉岳寺の義士墓地入り口門は浅野家鉄砲洲屋敷の裏門を移築したものですが、
門前の会談に立って右側に見える大石家の墓碑は誰の墓碑でしょうか。
29.大石頼母助の子息に浅野美濃守という旗本がいましたが、元禄十四年中に、ある事が原因で壱岐守に任ぜられています。
官名を変えた理由は何だったでしょう。
30.浅野内匠頭が田村家で切腹の座に着く前、「此の段兼て知らせ申す可く候へ共(後略)」の言葉を、自分の家来二名に残しております
が、その二名の名を田村家の家来がよく聞き取れなかったため、二名の家来の名を誤記しています。
どのように誤記して名前を書いたでしょう。
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